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batuの戦国武将を考える部屋
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このブログは、ロシア大統領ネドベージェフが北方領土に上陸しているのを見た時に、バトゥに遠征させたろか!
と思った私が個人的に好きな戦国武将を現代社会と絡ませつつ、他愛のない考証の真似事をしてるブログです・・・
時々、気分転換に時事ネタや宇宙戦艦ヤマトに走っちゃうこともありますが、自己満足ということで許して下さい(笑)

兄弟サイト「batuの宇宙戦艦ヤマトを考える部屋」もよろしく
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戦国最終勝者-徳川家康-

2011/06/27 19:05
百年以上にも渡る戦乱の世。綺羅星の如く輝く数多の名将たち。その中での最終勝者が徳川家康なのである。海外でもSHOUGUNとして認知され人気も高いという・・・

今回のテーマは日本において恐ろしく人気のない天下人、徳川家康です。何かチョットだけ不憫・・・

今現在、不遇をかこつ徳川家康も「明日のために今日の屈辱を耐え忍ぶ」ことが尊ばれた戦後復興期においては人気を博したのですが、それも今は昔。

家康は東の今川家、西の織田家の狭間で揺れ動く東三河の小豪族松平家の跡取りとして生まれました。竹千代(家康の幼名)は今川家に人質として送られる折、銭五百文で織田家に売り渡される等の屈辱の人質生活を12年間にも渡り送るという不遇の幼少時代を過ごしました。

家康といえば「忍耐の人」というイメージですが、それはこの時代に身についたものでした。しかし、この時に若殿時代のドSの織田信長に相撲部屋に劣らぬ可愛がりを受け、今川家では太原雪斎の薫陶を受けることも出来ました。父広忠死後は今川家に捕えられたままの元康(後の家康)に忠誠を誓う者のみが残り、結果的に家臣団の結束が強化されました。後に「三河の犬」と評される忠臣で名高い家臣団が形成されたわけです。

塞翁が馬とはこの事で、不遇をかこっても結果的に全て後の飛躍に繋がっている感のある家康です。この辺は「我に七難八苦を与え給へ」と言った山中鹿之助とは違います。

「桶狭間の戦い」で今川義元が非業の死を遂げると、時節到来とばかりに三河にて今川家から独立し、徳川家康と名乗り、織田信長と同盟を結びます。しかし、同盟とはいえ信長のために馬車馬のように忠勤する日々でありました。

しかし、その信長は数々の難局を乗り越えて天下人となり、家康はその唯一の盟友という立場を得ます。本能寺の変後の影響力を鑑みれば辛い下積み生活も無駄ではありませんでした。信長に滅ぼされた武田の遺臣達をヘッドハンティングしている辺りの抜け目のなさも流石です。

しかし、「小牧・長久手の戦い」で秀吉に勝利するも政治で遅れをとり再び忍耐の日々を送ります。関東への移封も快諾する辺りは忍耐男の面目躍如でしょう。しかし、本拠を小田原から江戸に移す辺りの先見性は流石です。

耐えに耐えまくった家康は56歳にして遂に天下人となるチャンスが到来します。今度こそこのチャンスをガッチリ掴み、晴れて天下人となるわけです。

家康が天下を取れた最大の要因は健康と長寿ではないかと思われます。生まれた時期も遅過ぎた伊達政宗と違い最適でした。一時代を築いた織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信は既に亡く、秀吉の死去で天下の趨勢は決まったといって良いでしょう。

家康が偉いのは武田信玄の様なお家騒動を起こさず、秀吉の様に溺愛することもなく、万全の手を打って後顧の憂いを無くして旅立った辺りでしょうか。またそれをするだけの時間を長寿が与えてくれました。

しかし、塞翁が馬の呪縛はここでもやって来ます。家康は健康管理にかなり気を使い、自ら薬草園を作り上げ、手作りの薬で高熱を治した自信から、鯛の天ぷらにより食中毒を起こした際も、侍医の意見を無視して手製の薬を服用し続けて命を落とすのでした・・・

また耐えに耐えた忍耐力は天下を与えてくれましたが、豊臣家からの天下簒奪の手法が現在不評を招き、「戦国の三英傑」たる信長、秀吉ほどの強烈な個性や派手さもないことも手伝って、家康アレルギーとなって、現在人気の低迷を招いています。


BBCで紹介されている徳川家康


もっと見たい人は「関が原の戦い」をどうぞ。
どっち付かずの態度を取る小早川秀秋を巡り、石田三成は狼煙を上げる。一方、徳川家康は大筒を打ち込み、見事寝返らせている。


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最上義光は梟雄か?

2011/06/23 19:33
よく最上義光が稀代の悪人であるとしたり、そうではなく苦境に立たされて止むを得なかっただけであると擁護されたりしています。しかし、梟雄好きの私にとっては、義光が好きならば、そんな論戦はせずに梟雄で推せばイーのに・・・と思うわけですが地元はそうもいかないのでしょう。

今回のテーマは出羽国57万石を築いた名将、最上義光です。独眼竜伊達政宗の伯父として知られる人物です。

梟雄と疑われるだけあって、確かに最上義光は謀略を用いています。先ずはそれを見てみましょう。

・義光の父義守は傲慢不遜の義光を嫌い、義光を幽閉、廃嫡して次男義時を立てることを画策。義光は義守を隠居させ義時を自刃させました。諸説色々ありますが家督相続で実父と争いがあったのは確かでしょう。

・上山満兼の重臣、里見民部を調略し満兼を殺害させ上山城を手中に納める。

・小野寺義道の重臣、鮭延秀綱を調略し鮭延城を手中に。あっ、調略したのは氏家守棟でした。調略は別に奸計ではなく、戦国武将の常套手段ですしネ。むしろ智将、名将の証。

・大宝寺義氏の重臣、東禅寺義長を調略し謀反を起こさせ義氏を自刃させる。

・谷地城主・白鳥長久の娘と嫡男、最上義康との縁組を試みるも破談。義光は重病と偽り長久を山形城に見舞いに来させて巧みな演技だったか定かでないが、枕元まで近づけて自ら刺殺。そして谷地城を攻め白鳥氏は滅亡。これぞ梟雄が用いる奸計であります。最上義光の悪評は恐らくこの禁じ手に手を染めたからでしょうや。

ちなみに長久の血を浴びた「血染めの桜」が昭和の初めまで存在してましたが、惜しくも枯死してしまいました。残念・・・。山形のもう一つの老桜「霞城の桜」は大枝が枯れて小振りになったものの現存しています。

・東根頼景の弟、里見景佐を調略し謀反を起こさせ頼景を葬り東根城を手中に。

と以上の様に最上八盾を攻略するまでに謀略を駆使した訳ですが、調略+謀反+急襲+自刃というのが常套手段です。白鳥氏の1件は明らかに悪辣で1回だけだからという問題ではなく、手を染めたか染めていないかの問題です。義光は手を染めちゃいましたが、私の答えは最上義光は梟雄ではありません。

これは褒めているわけではありません。戦国の世において梟雄は魅力的だったりするので。身近にいたら嫌ですけどネ。寝首を掻かれるんだから当たり前か(汗)

何故、最上義光が梟雄でないのか?それは調略が不調の場合には戦に打って出ているからです。義光は豪族からあの独眼竜伊達政宗や上杉景勝等を相手に干戈を交えています。自ら切り込んで諫められることもあり、梟雄のイメージからチョットずれるなぁ・・・と感じるわけです。

しかし何といっても極めつけは妻・としよ姫、妹・義姫、娘・駒姫への尋常でない溺愛ぶりでしょうか。これはもう梟雄の定義から完全に外れています。時流を読み故あれば裏切るのが梟雄の性質なれど義光の場合は以下に記す通りです。

九戸政実の乱で奥州再仕置軍の大将、豊臣秀次が駒姫の美貌を聞き付け側室にと所望され、渋々愛娘を差し出したのに秀次は謀反の疑いにより切腹(秀次事件)。その巻添えで駒姫も処刑。最上義光も嫌疑をかけられ謹慎処分を喰らい徳川家康に傾倒してゆく姿勢も梟雄とかけ離れています。というより、戦国の世において娘や妹などは人質や政略結婚の道具として扱われることが殆どで、平均的な戦国武将の感覚からも外れてます。

冷酷無比が梟雄の本質ならば最上義光は余りにも情が深く、故にシスコン、親バカと揶揄されるのでしょう。今の日本では当たり前ですが、戦国武将としては稀有な存在です。嫁いだ妹とあそこまで文通する武将って他にいないのではないでしょうか。内容も含めてネ。

今回は梟雄か否かという内容で長くなってしまったので、他の内容はまたの機会に・・・


名作大河「独眼竜政宗」原田芳雄演じる最上義光が渋い。
妹が政宗の母である義姫。妹を焚き付けて政宗暗殺を謀る。山形県ではこの描き方が不評らしい。当時学生だった私はこれこそ政宗の宿敵、戦国武将のあるべき姿と肯定的に捉えてました。ドラマ「不毛地帯」で原田芳雄を見たとき「オッ!最上義光!カッコイイなぁ原田さん」という目で見てました。まぁそんなの私だけか。逆に駒姫のくだりで助命嘆願のために政宗に頭を下げるシーンに衝撃と失望感に襲われましたが、今の平和ボケ全盛の大河ならば逆に垂涎のネタですかナ・・・


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武田四名臣@山県昌景-家康の脳裏に焼付いた堯勇-

2011/06/20 18:22
戦国最強と謳われた武田信玄には名だたる名将が揃っており、その中で能力において筆頭格ともいえるのが山県昌景ではないでしょうか。もちろん武田四名臣(武田四天王)にも武田二十四将にも数えられています。

今回のテーマは戦闘、戦略、外交、内政とその全てにおいて優れた手腕を発揮し正に名将中の名将たる山県昌景です。

何でも出来るというルネッサンス時代の偉人の様な万能の逸材といえば言過ぎですが(時代は重なりますがネ)、信玄もその能力に舌を巻き、全幅の信頼を寄せていました。

山県昌景の旧名は飯富源四郎といいます。断絶した甲斐の名門山県家の名跡を信玄の命で継ぎました。そして武田家の最高政治機関である「職」を原昌胤とともに努め、領国運営を支えました。内政だけでなく他大名や国人衆との取次ぎもこなしました。胆力も備えている昌景は今の時代に欲しい人材ですナ。何せ信玄から数多の感状を拝受する程の力量とあの信玄に信頼された逸材ですから。

しかしその才の真髄は戦略、合戦において如何なく発揮されました。多くの武将が苦手とする攻城戦、その短期攻略をも得意とし、野戦では智謀においても強さにおいても風林火山を体現するかのような存在でした。

黒地に白の桔梗紋の旗印に軍装を赤に統一した赤備えは、信玄四隣座巻の赤備えとして畏怖されました。山県昌景の号令を聞いただけで逃げ出す者さえ出た程です。桔梗紋といえば明智光秀が有名ですが、淡い色合いの光秀と異なり、こちらは何とも重厚です。赤備えと相まって勇者には似合いそーです。

この昌景の勇姿は軍談本にも記され長く語られる程でした。この山県昌景の名を更に高めたのが、1572年の「三方ヶ原の戦い」においてでしょう。武田軍の先鋒として5千の兵を率いて徳川家康と戦いました。山県昌景は強烈な突撃を何度も繰り返し家康本陣に肉薄します。その余りの猛攻ぶりになす術のなかった家康は自害しようとした程でした。

家康は「山県とは恐ろしき武将ぞ」と余りの恐怖に馬上で糞尿を漏らし命からがら浜松城に逃げ戻りました。家康は己への戒めとして絵師を呼び寄せ恐怖に慄いた姿、顰像(しかみぞう)を描かせた逸話は有名です。

「三方ヶ原の戦い」の後、容態が悪化し死期を悟った信玄は昌景を枕元に呼び寄せ後事を託すとともに「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命したと云います。

※瀬田・・・琵琶湖の南にある交通の要衝で東国から京に入る入口。瀬田に旗を立てよとは上洛を促すことに他ならない。

信玄没後、若き当主武田勝頼と信玄時代の重臣達との関係は上手くいっていなかったようです。昌景を初めとする四名臣と勝頼は互いにどう感じていたのでしょうか?信玄の身内である奸臣穴山梅雪がご親類衆ということで幅を利かせてしまったこともありますが、昌景自身も梅雪のことを買っていたようです。あぁ・・・痛恨の買い被り!

まとまり・結束を欠いた集団は切り崩しの激しい戦国の世において滅亡してゆくことは当然の帰結といえます。「長篠の戦い」において武田軍は明らかに結束を欠いていて統制がとれていませんでした。穴山梅雪が持場放棄ともいえる撤退をしたことからも明らかです。場数を踏んでいる武田四名臣は死と敗北を予感していた様です。代替わりの難しさを改めて感じさせます。そう考えると徳川家康はその辺は流石で完璧でした。

山県昌景は「長篠の戦い」で織田、徳川連合軍の馬防柵に風穴を開けるべく突撃を繰り返し銃撃を縫って馬防柵までたどり着きますが戦場において山県の赤備えは敵味方に関わらず注目の的でした。反面、鉄砲隊の的ともなり多数の銃弾を浴び両腕の自由を奪われてなおも采配を口にくわえて戦い続け壮絶な最期を遂げます。

武田家滅亡後、徳川家康は山県昌景の旧臣を仕官させ徳川四天王の井伊直政の下につけ井伊隊を赤備えとしました。また本多信俊の子信勝の幼名を山県と称させました。徳川家康は年月が如何程経とうとも、その脳裏には強烈に山県昌景の堯勇が焼き付いていたのでした。

しかし、信玄と共に幾多の戦場を駆け巡った名将達が揃って討死し、武田家が最後はあっけなく滅ぶとは誰も想像出来なかったでしょう。本当に時代の転換期は何が起こるか分かりません。

世界第2位の経済大国まで上り詰めた日本も滅ぶときが来るかもネ。北朝鮮に軍事転用可能な部品を不正輸出する金の亡者、売国行為もいとわない金欲・権力欲にまみれた信念なき国会議員を見るにつけ不安に駆られます。

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別所長治-要らぬプライドは破滅を招く-

2011/06/18 12:38
別所氏は播磨一円に影響力を持つ有力な国人衆でしたが、そのルーツは定かではありません。「播州太平記」によれば播磨守護職であった赤松円心の弟円光は赤松氏の本拠地白旗山の麓に居を構えたので、赤松の別所殿と呼ばれ、その後加西郡に本拠城を築き別所姓を名乗った。とあります。円心同様、円光も武勇に優れており勢力を拡げていきました。

今回のテーマは謙虚という言葉を知らず、老害を撒き散らした執権と家老に振り回された若き当主、別所長治です。

播磨国は織田氏と毛利氏の二大勢力の狭間に位置するため、どちらに与するかでその将来が決まるという立場でした。播磨の国人衆達は元々は毛利氏の影響下にありましたが、姫路御着城主小寺家の家老黒田官兵衛の説得により、播磨の国人衆は織田方へ転じました。

将軍足利義昭、本願寺光佐の介入等で織田、毛利の対決姿勢が鮮明となり
羽柴秀吉が西国攻めの総大将に任命され、秀吉が播磨入りします。織田信長の戦略は播磨の国人衆達を毛利攻めの先兵にしようとするものでした。特に最大勢力の別所氏とは関係を深めていきます。

今でも一部上場の大企業と地方の下請け中小企業との間で会議を開き製品の規格や納期等の打ち合わせをするでしょ。そして大企業の技術者で高度な知識と見解を持っているものの、年配者の相手を立てて「ボクよく解からないところもあるんで、そこは教えて下さいね」みたいなことを言われて、それを真に受けて横柄な態度で弁舌をぶっちゃう人いますよネ。よく解かってる部下は傍らで「やめてくれぇ〜」と心中で叫ぶ・・・みたいな。

毛利攻めを前に同じことが播磨国で起こっちゃう訳なんです。所謂「加古川評定」というやつです。あぁ・・・みっともない。

羽柴秀吉は毛利攻めに際しての軍評定を加古川で開きます。秀吉は人たらしですから、毛利攻めの協力を感謝し軍略について相手を立てて質問します。そこで、若き当主、別所長治の叔父であり執権の別所吉親(ヨシスケ)と家老三宅忠治が弁舌をぶっちゃう訳です。しかも赤松家の代々の軍功からとうとうと長談議に及んだ。とあります。相当しつこかった様で、流石の秀吉もこれには辟易としてしまい、立場を分からすためにクギを刺しても長談議は終わらなかったといいます。

人の話を聴かない。空気を読まない。身の程をわきまえない。と三拍子揃っていたわけです。これには秀吉も怒り心頭に三木へ帰っていきました。

赤松円心以来続く名門のプライドと相まって成り上がり者である羽柴秀吉を猿冠者と侮った吉親は、他の重臣達と共に若き当主、別所長治に毛利方へ転ずるよう焚き付けます。こうゆう実権を持った年寄り衆に悩まされることは今も昔もよくあることで、武田勝頼の項でも述べました。

別所長治は何とか吉親等の重臣達を諫めようとしましたが叶わず織田方に対して反旗を翻します。これには秀吉も激怒し「小三郎(長治)ごときに出し抜かれるとは無念千万。小三郎の首を取らなければ二度と弓矢は取らない!」と三木城攻めを決行します。

この煽りを喰らったのが上月城にいた尼子勝久と山中鹿之助であり、結果尼子氏は滅亡します。腹背に敵を迎えた秀吉が撤退したため毛利の大軍に攻められる中で孤立したためです。

上月城と違い、別所長治が籠る三木城は堅城でなかなか落とせません。秀吉は三木城攻略のために支城を一つずつ落していき三木城を孤立させます。ここに至って別所長治は人生最後の決断をします。「城主一族の切腹の代わりに城兵と領民を助けることが城主のつとめ」と述べ、遣いを浅野長政のもとに遣わし三木城は開城します。

秀吉は別所長治の決断と心意気に感銘し最後の酒宴にと酒肴を贈り城兵を赦免することを認めました。流石日本の武士らしい逸話です。(秀吉は百姓出ですがそれを言ったら吉親と一緒)

別所長治とその叔父重棟が開城の条件を城内に知らせたところ、元凶たる吉親のみが反対し城兵に討ち取られる波乱がありました。ホントにこやつは戦国一の奸臣候補です。穴山梅雪と一緒で最期の最期まで見苦しい・・・

別所長治の自刃で別所氏は滅亡します。長治22歳という若さでした。しかし荒木村重の謀反も重なったこともあり、20ヶ月という期間に渡り籠城戦を繰り広げ、毛利攻めに対する痛烈な足止めを喰らわしました。時間的に見れば秀吉が最も苦戦した戦いだったのではないでしょうか。それにしても別所長治の微妙な立場に同情を禁じえません。

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隠れた名将C長野業正

2011/06/15 18:11
長野業正は関東管領上杉憲正の重鎮で尚且つ上州豪族を束ねていました。そんな長野家は出自は良いです。「伊勢物語」の主人公とされる在原業平の末裔であります。

今回のテーマは北条家顔負けの籠城戦のスペシャリストの長野業正です。

関東管領上杉氏は後北条氏に上野国を追われ、越後の長尾景虎を頼り上杉姓と管領職を長尾景虎に譲った話は有名ですが、西上野国は後北条氏、武田氏も狙う場所にありました。しかし長野業正はここに残り頑強に守り続けます。

長野業正はこの西上野国の箕輪城を本拠として、大小数十に及ぶ城砦による一大防衛網を構築しました。これを支えたのは地元の豪族達であり、業正が上手く纏め上げていました。てことは政治力もあったということです。余談ですが、長野家家臣に剣聖上泉信綱がいました。長野氏滅亡後に新陰流を創始します。

諸説色々あるとは思いますが、武田、北条の垂涎の的となる地において同地を守り切ったのですから、それは評価して差し支えないでしょう。まぁこの時代の人は全てにおいて命懸けですから平和ボケした現代日本人には及びもつかない苦労があったでしょうや・・・

何しろ六回に渡る武田信玄の猛攻を防ぎ切り、信玄をして「箕輪城に業正がいる限り上州には手が出せぬ」と言わしめました。支城が落とされて孤立する、という事態に陥ることなく防衛出来たということは巧みな用兵術があったのではないかと思われます。

しかし、その長野業正が病没すると武田信玄は嬉々として大軍を率いて攻め寄せるのでした。業正の息子業盛は父の遺言である「降伏するくらいなら潔く討死するべし」を忠実に守り奮闘の末、自刃するのでした。凄い厳しさです。今の平和ボケ大河ドラマ監督にこの題材を与えたらどう描くのか逆に興味があります。

小田原城の様な巨城ではなくてもこの様な堅城が全国に数多くあることを鑑みると、職人気質な日本人は智恵を絞り実戦的な城を築く技術とノウハウがあったのだと思うんですよネ。別所長治が籠った三木城は秀吉相手に20ヶ月も持ちこたえました。

なので、豊臣秀吉の朝鮮出兵において、日本の諸将は落とした朝鮮方の城は使用せずに自ら城を築きました。朝鮮の城が守りに適さないという理由からでした。流石実戦慣れした戦国武将であります。

韓国はこの遺構を保護するどころか国の恥として潰しているらしいのですが、非常に残念です。

朝鮮出兵は捏造のオンパレードですので本ブログでも採り上げていきたいと思います。あっ、でもそれしたら潰されるか・・・

・隠れた名将@里見義堯
・隠れた名将A堀秀政
・隠れた名将B蜂須賀正勝

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毛利元就は謀だけではない

2011/06/13 18:33
毛利元就は尼子経久、宇喜多直家と共に中国(地方)三大謀将に挙げられる戦国きっての謀将です。宇喜多直家の項で梟雄と謀将の違いって何かは後日述べる。としましたので、ここで考えてみることとします。

今回のテーマは戦国の七雄の第三弾、毛利元就です。但し織田信長、豊臣秀吉のテーマは「戦国の七雄」ではなく「天下人」の方に入れてます。

早速梟雄と謀将の違いですが、梟雄は主家乗っ取りの下剋上を平然と行う。「戦」よりも「謀略、暗殺等の奸計」の方が目立ち、後者により領地拡大していくって感じですかネ。一方謀将は離間策等の謀略や調略が上手いというイメージです。

下剋上を旨とする戦国乱世においては梟雄と謀将の線引きも難しいんですけど。故に名将として名高い朝倉宗滴も「武者とは犬とも言え畜生とも言う。勝つことが本である。」と言いました。

毛利元就は梟雄と違い、やる時は寡兵であっても戦をします。寡兵で大軍相手に仕掛けるので当然存亡を懸けたもとなります。多勢に無勢であるから、まともにやっても勝ち目は無いので謀略の出番となる訳です。細工は流々、仕上げは上々ってヤツです。

ですが毛利元就は謀略の方ばかりがクローズアップされている感じです。しかし結構勝負懸けてます。寡兵で戦という状況は、そもそも毛利家が戦国大名ではなく土豪、国人衆といった類だったからでしょう。しかも毛利元就はその中で嫡男ではなく次男でした。

元就の兄である嫡男興元とその後継者幸松丸が相次いで亡くなると、元就とその異母弟の元綱との間でお家騒動が勃発します。弟元綱の背後には尼子氏がおり、元就は元綱を討って尼子氏と絶縁しました。その対応策として大内氏に従属します。

こうした兄弟を手にかけるという辛苦は織田信長や伊達政宗等もその洗礼を受けており、とてもヘビーな時代であります。こうした辛さから毛利元就は兄弟が協力し支え合うことを「三矢の訓」として説いたと云われてます。トラウマになっていたのかも知れません。

弱小領主の共通の悩みが大国の顔色を窺っていくということでしょう。もちろん大内、尼子という超大国に挟まれた元就も例外ではありません。

しかし元就の凄いところは、そんな中で吉川家、小早川家に息子を養子として送り込み、宇喜多直家ばりに暗殺をも駆使して乗っ取り、安芸国の支配権を得て一豪族から脱皮していくところではないでしょうか。ホント抜け目ありません。だから梟雄と謀将の線引きは難しい・・・

ですが、超大国である大内家を乗っ取った陶氏や尼子氏に対して機を見て戦いを挑んでいく心意気や良しです。そこでの謀略の切れ味が素晴らしい。でも決着は戦で付ける。本当に素晴らしい・・・それに比べてどうですか。今の政治家の安全保障に関する無策ぶりと腰の引けっぷりは!自衛官も中国人妻にイージス艦の情報盗まれる有様だしネ。故にアメリカに「無能な味方は敵よりも恐ろしい」と評されました。

毛利元就は出世時の身分を考えると、中国制覇は偉業です。戦国大名の跡取りからスタートしていたら?と思いますが、それについては下の動画のお姉さんが武田信玄や上杉謙信と同じく身も蓋も無く切り捨てていて、それでいて核心を突いてるナ。と私も同意見でした。

中国制覇は成し遂げたものの、領国内の体制は武田氏と同じく国人衆達との和の上に成り立ってます。武田信玄の項でも述べましたが極めて日本的な訳です。皆との合議の上決定する。これは元就や信玄だけの話ではなく、今の日本にも通じます。無駄な争いや消耗は避けるメリットはありますが、機動性に欠けます。

そう考えると織田信長の異質性や革命児っぷりが改めて浮き彫りになります。そんな革命児が京を狙える位置に生まれたということは天に選ばれし者ということか・・・

しかし、大物はやはり一回では述べきれないから毛利元就もまた本ブログに何回もご登場願いましょう。


こんなアニメがあったとは・・・全体の流れをよくまとめてます。最後に解説のお姉さんが天下について身も蓋もないことを言ってますが、核心を突いてます。
時間の割りに結構よく出来てます。
クリックしても動きませんが、クリック後画面中に出て来る「YouTubeで見る」をクリックすれば見れます。


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九戸政実-正直者が馬鹿を見る-

2011/06/10 21:36
九戸政実もマイナー武将ですが主君の南部氏もこれまたマイナーですナ。この九戸政実のテーマ分類を謀反人に入れるか入れないか迷いましたが、「勝てば官軍!負ければ賊軍!」の理により謀反人ということで・・・

今回のテーマは世継ぎ問題に振り回された猛将九戸政実です。

「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われた広大な版図を築いた南部晴政。その晴政には男子がなく、甥の良直を世子としましたが、何とも間が悪くその後に実子である晴継が誕生します。こうなると晴政にとって良直は邪魔者でしかなく、暗殺まで企てますが失敗。一気に緊張感が漂います。

晴政死後、実子の晴継が家督を継ぐものの、晴政の葬儀を終えた帰り道に晴継が暗殺されます。真相は闇ですが大体察しはつくでしょう。

跡継ぎ候補は一族でもあり、南部家最精鋭にして家中一の実力者九戸政実の弟にして晴政の次女を娶っている「九戸実親」と晴政の長女を娶っている先述の「南部良直」の二人に絞られました。

結局、北信愛が強引な手法で良直を当主の座に就かせたことにより火種が燻るわけです。九戸政実にしてみれば、良直こそ晴継を亡き者にした謀反人との気持ちがあったことでしょう。故にテーマ分類で九戸政実を謀反人に入れるのか迷った訳です、ハイ。

その後、南部良直は小田原に参陣し豊臣秀吉に本領安堵の朱印状を得ます。九戸政実と同じく良直に反旗を翻した津軽為信は更に上手で信直に先んじて秀吉の朱印状を得ていたのでした。為信の場合は政実と違い、己の野望で独立したにもかかわらず、まんまとしてやりました。

しかし九戸政実は中央と結び付いてアピールするなど要領よく立ち回ったり、家中の影響力に物をいわせての奇襲・強襲や暗殺等の手を使わずにいたため、立場が悪くなり窮地に陥っていきます。南部良直、津軽為信の国盗りの所業を鑑みると九戸政実だけがバカを見ました。

しかし綺麗事だけでは立ち行かない人の世なので仕方がないと言えばそれまでですが。政敵にイチャモンを付けて開戦するのは古今東西よくあることで九戸政実は南部良直の嫡男利直に城を取り囲まれます。

しかし九戸政実が丹精込めて築き上げた九戸城は堅城であり利直は撤退しますが、これで完全に戦闘状態に突入します。南部家の精鋭部隊である九戸隊は強く、その上・九戸城は天然の要害に守られた堅城である為、行き詰った良直は秀吉に泣きつきます。

朱印状を与えた良直に盾突く。それは秀吉に盾突くことに他ならず、奥州再仕置軍が編成され出陣します。再仕置軍は総大将豊臣秀次の下に蒲生氏郷、堀尾吉晴、浅野長政石田三成井伊直政という大物が名を連ね、これに奥州から
伊達政宗、楯岡満茂、秋田実季に先述の津軽為信と蝦夷から松前慶広も加わり6万の大軍となりました。

対する九戸政実は5千。状況を見るに政実は人望が厚かったことが窺えます。堅城を盾に奮戦しますが、城兵を助けるという条件で開城降伏します。が、しかし開城後、老若男女を問わず城内の者は皆殺しにされ、政実も斬首にされました。

最後の最後まで正直者はバカを見る結果となり九戸家は滅亡してしまいます。なんともお気の毒です。皆さんも派閥争いには細心の注意を払いましょう・・・

そういえば、どこぞの元首相が恥ずかしげもなく、口約束を反故にされ「ペテンだぁ!」と現首相のことを罵ってましたが、知能も精神性も子供以下ですナ。戦国の世ならば一族皆殺しの憂き目に遭うタイプでしょう鳩山君は。あっ!言うてもた・・・

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隠れた名将B蜂須賀正勝

2011/06/09 21:26
えっ、有名人ですよ。なんで隠れ扱いなの?って声が聞こえてきそうな今回の隠れた名将シリーズ。

今回のテーマは、豊臣秀吉立身出世の功労者である蜂須賀正勝です。小六の通称で有名です。

何故、小六こと蜂須賀正勝が隠れ名将なのか。それはそこそこ名を知られているものの、イメージが悪いからです。正当な評価を受けていないというか・・・

蜂須賀正勝は濃尾国境で木曽川の川並衆を率いた土豪のリーダーでした。おそらくこの出自がそのまま小六のイメージに繋がっている感があります。骨太で毛深い無骨な現場責任者という扱いです。そんな風に誤解している人が沢山いるのでは?また通称の小六という呼び名もそのイメージを助長しているような・・・いや、全ての元凶は太閤記の盗賊団の頭、という設定ですかね。

蜂須賀正勝は秀吉が必要とするもの、つまり秀吉が持っていないものを全て備えていました。身分が低い、コネもない、手足の如く動いてくれる手下、実情を把握した見識、これらを秀吉は織田信長に出仕したとき持っていませんでした。

それらを全て正勝が埋め合わせてくれたのです。特に正勝が得意としたのが外交と調略です。意外や意外でしょ。信長の悲願であった美濃攻略。その足掛りとなった墨俣築城を皮切りに戦闘、外交、調略と縦横無尽に活躍し、秀吉の大躍進を支え続けました。

近江国六角氏の箕作城攻めや金ヶ崎の引き口において知勇を発揮して秀吉の名を高めました。毛利攻めや中国大返しにおける調略、和議は黒田官兵衛と共に話を纏め上げ、卓越した外交能力を証明してみせました。調略等の智謀は黒田官兵衛、竹中半兵衛のニ兵衛ばかりがクローズアップされ、正勝のそれは知られていないようです。あぁ、可哀想。

この後、正勝は四国阿波国を与えられられますが、息子家政に譲り自身は秀吉に近侍し続けました。そう、正勝は野心のない忠臣だったのです。素晴らしい・・・常に傍にいて戦闘から調略、外交は云うに及ばず、中国大返しの様な危機においてはサイコロ勝負に例えて叱咤激励もしてくれる。最高の片腕であったに違いありません。

秀吉の成り上がりの影にはニ兵衛と正勝の存在が欠かせません。しかし竹中半兵衛は早世し、黒田官兵衛には信頼を寄せれず、蜂須賀正勝こそが精神安定剤であったと思われます。何せ調略、外交を成す人物ですから大人の良識がないとそういう難しい話は纏められません。

その正勝が病没した後の秀吉は一気にバランス感覚を失っていったような気がします。蜂須賀正勝は相当の傑物だったに違いありませんヨ!皆さん。

・隠れた名将@里見義堯
・隠れた名将A堀秀政
・隠れた名将C長野業正


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武田信玄の限界

2011/06/08 19:56
本ブログもちゃんと大物を取上げないとネ・・・となると真っ先に頭をよぎるのは戦国最強の呼び声高い武田信玄の名が挙がっちゃうんですよねぇ。

今回のテーマは風林火山の旗の下、武田二十四将と称される名将達を従え、その名を全国に轟かせた精強なる甲斐甲州軍団の頭領、武田信玄です。

本ブログで既に紹介した「相模の獅子」こと北条氏康と同じく戦国の七雄に挙げられる「甲斐の虎」こと武田信玄。

その信玄が戦国最強の逸話としてよく引き合いに出されるのが、後の天下人であり戦国の最終勝者である徳川家康を鎧袖一触に蹴散らした「三方ヶ原の戦い」でしょう。何せ約2時間で徳川軍は総崩れとなり家康本人も討ち死寸前まで追い詰められトラウマとして残る程の実力の違いを武田信玄は徳川家康に見せ付けました。

兵力差は倍以上の開きがあり、寡兵の徳川家康は武田信玄の動きにまんまと城外におびき出された時点で勝負ありでした。この辺の老獪さは流石信玄です。

そんな武田信玄は織田信長とは対極の位置にある戦国大名であると思われます。信玄も信長も家督を継いだときの領国はバラバラの状態でした。それをまとめ上げる手法も、その後の領国運営も人身掌握術も全て対照的です。そう、全てにおいて対照的なのです。

一言で武田信玄と織田信長の違いを表現すると、「地元に根ざした和を重んじる日本的職人集団」と「本社移転、転勤は当たり前、完全実力主義の外資系大資本企業」といったところですか。えっ、一言にしては長いって?・・・平にご容赦の程を。

となれば両者の対決の流れも結果も大東亜戦争における日米対決をトレースするように流れていくのでした。日本人としては複雑な気分です。何せ私は愛国心のあるナショナリストなもので。

武田信玄は上杉謙信と川中島で争い、その謙信が関東遠征に精を出している間に信長・家康と同盟を結び、今川義元亡き後の駿河に攻め込みました。

しかし今川義元を討ち取った当の信長は今川領には目もくれず京を目指しました。やはり信長の方が一枚も二枚も上手なのでしょう。

信玄と同時スタートではなく、後から伸して来た信長は瞬く間に領国拡大、京も押さえ、経済力も群を抜き、故に兵農分離、鉄砲の大量購入も可能となりました。この状況を信玄はどう見ていたのでしょうか。

気付けば武田家単独では織田家に太刀打ち出来ないまでに開いた国力差。武田信玄の死因は胃がんと云われてることから、信玄は自らの体の変調を自覚していたでしょう。義信を廃嫡にしてまで世継ぎにした勝頼の為にも織田、徳川に挑まねばならい必要性をひしひしと感じていたことでしょう。

単独で織田家と戦えないので、信長包囲網を敷いた上で西上し、先述の「三方ヶ原の戦い」となる訳です。この辺の戦略は流石です。しかし朝倉義景が理由無く領国に引き上げてしまい信玄は激怒しますが後の祭りです。単独で挑めない武田信玄の限界がここに見て取れます。

日本的な土着的かつ調整的手法で一代で成す限界が地方制覇なのではないでしょうか。時代は武田信玄を選ばず織田信長を選んだのでした。故に直接対決を目前にして武田信玄は病に倒れました。

信玄は「三年間は喪を秘せ」と遺言しますが、それは周囲の敵が武田領に雪崩れ込んで来ることを危惧したからに他なりません。

武田勝頼の項でも触れましたが、諏訪姫を溺愛し、諏訪姫が早世するとその子を溺愛。そして無理な政治劇が家臣団の取り返しのつかない不協和音を招き武田滅亡の原因になったと述べました。

戦国を代表する名将武田信玄ともあろう者が情に流されてしまった訳です。情に流されることの無かった革命児信長は謀反により横死しましたが、より洗練された仕組みは秀吉により引き継がれました。実力主義を浸透させた結果と云えば皮肉ですが織田家は実力者羽柴秀吉に乗っ取られました。しかし他国に雪崩れ込まれることはなく、国は残りました。

武田家は信玄が危惧した通り、信玄没後9年にして周辺諸国に雪崩れ込まれ、信長に滅ぼされる訳です。結局滅び方も対照的でした。


「大河ドラマ武田信玄」-信長上洛-
独眼竜政宗の翌年の作品だけに印象薄いんですが、改めてみると信長上洛に対して信玄の焦りと苛立ちを描いており、実は秀作なのでは・・・


「大河ドラマ武田信玄」三方ヶ原の戦い-絵師を呼ぶのじゃ徳川家康-
この頃の大河ドラマの合戦シーンは血生臭くて大変好感が持てます。今の大河がいかに平和ボケした駄作であることかよく分かります。NHKが腰抜けなのか監督が平和ボケで脳みそ茹ってる馬鹿なのか?最近の大河は見るに耐えません。


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隠れた名軍師 角隈石宗

2011/06/07 20:19
一時は九州に覇を唱える寸前までいった大友宗麟。角隈石宗は、その軍師なのだから只者な訳がないのである。でも知ってる人はあまりいない。まぁ大友家は宗麟の晩年から斜陽が激しく、次代に改易されたのであるから角隈石宗の書籍を探すのは骨が折れそう・・・

今回のテーマは私の中では大物感漂う名軍師、角隈石宗です。ツノクマセキソウですよ。覚えてあげて下さい。

角隈石宗は軍学のみならず、天文学や易にも通じており、主君大友宗麟に対する進言もどことなく諸葛亮じみているのである。誠に渋い。少なくとも直江兼続よりは私の興味の触手が伸びる(笑)

ルイス・フロイスの記述によると家臣団からの信頼厚く尊敬を通り越して尊崇されていたそうな。尊崇ってカリスマの域なのだからやはり只者ではありません。何せあの無敗の猛将立花道雪が師事したのがこの角隈石宗だったりするわけです。

しかし、ルイス・フロイスって、どこにでも顔を出すなぁ・・・。角隈石宗は大友宗麟がキリスト教に帰依することに猛反対したことから、フロイスに不明の徒と評されちゃいました。ヒドイ、フロイスちゃん。

しかし、キリシタンになってからの宗麟は急激に覇気を無くしていきます。石宗や道雪の様な忠臣は遠ざけられ、こうなると奸臣が跋扈するのは歴史の必然なわけです。長宗我部元親の項でも述べましたネ。

優秀な人材を豊富に抱え、九州の大半を制した大友家、その中心には角隈石宗がいました。が、主君のていたらくがたたり斜陽著しい大友家に代わり島津が台頭してきます。

島津の圧迫に耐えかねた伊東義祐は宗麟に助けを求めます。石宗は諸葛亮の如く天文易学(占星術)を駆使して戦うべきでないと諫言しますが聞き入れられず、日向国遠征の断が下ります。あぁ・・・

占星術に長けたる角隈石宗は自らの武運が尽きたことを悟り、秘伝の書を焼いた上で出陣します。昔は戦前に易占を行うのは普通にあったようです。武田信玄もお抱えの易者に合戦の時期や場所を占わせていたようですから馬鹿にしてはいけません。

今でも会社経営者の相談相手が占い師であったりするので、昔も今も人の求めるものは変わりないようです。

さぁ運命の「耳川の戦い」ですが、角隈石宗の予言通り大友方の惨敗に終わります。しかも今後の趨勢を決するような大惨敗となります。角隈石宗は大事を小事に済ませるよう懸命に決戦を避けようとしましたが、大友軍が耳川を渡河した時点で勝負ありでした。待ち受ける島津鉄砲隊の餌食となり主だった重臣達の大半が命を落としました。

角隈石宗も最早これまでと敵陣に切り込み討ち死にします。この大敗で大友家の落日は決定的となりますが、角隈石宗はそんな大友家の不幸な将来を悟っていただけにやり切れなかったことでしょう。


現代版「角隈占いの館」-大友社長編-

社長:先生、今度中国に進出してドデカく儲けようかと思うとるんですワ!

角隈:時期も方位も悪い。自重なされヨ。

社長:そうは言いますけど先生、ライバル会社は皆中国で荒稼ぎしとるんですワ!ウチだけ乗り遅れまっせ。

角隈:おやめなさい。ロクなことありません、ハイ・・・

社長:そこを何とか抜け道探し当てんのが一流の占い師とちゃいまっか?あん、オ、コラ!

角隈:・・・・ダメなものはダ〜メ!時期、方位、場所、全てダメなの!

社長:ハン、頼んないのぉ〜!ええわい、アンタとはこれまでやのう。今行かないつ行くねん!

角隈:・・・あ〜あ(汗)

社長:プギャーーーー!中国人に騙された〜!自分で工場誘致しときながら立ち退きやとぉ〜!あの占い師めぇ〜!何で止めんかったんやぁ〜。「占いの館」にダンプ突っ込ませたるワイ・・・

角隈:・・・災いが来る。見える、見えるぞぉ(涙)

-Fin-

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織田四天王A柴田勝家

2011/06/07 01:13
「織田家筆頭家老」とよく称される柴田勝家。しかし全国を席巻した織田軍団の筆頭と呼ぶには今一つ物足りない感じがしないでしょうか・・・

今回のテーマは凡庸なる筆頭家老と名付けたい柴田勝家です。

柴田勝家は織田家筆頭家老の肩書きの他、織田家随一の猛将と言われたりしてますが本当でしょうか?

織田家筆頭家老というのは宣教師ルイス・フロイスからそう見做されており、また知行や年輩者であることを鑑みれば間違いではなさそうです。しかし織田信長に仕える場合は地位にあぐらをかいていれば容赦なくリストラされるので注意が必要です。何せ信長は年功序列を一顧だにしない合理主義者なので。

では柴田勝家は織田家随一の猛将なのでしょうか?私はこれについて違和感を覚えてしまいます。私の中では戦ベタなイメージだからです。天下に覇を唱えようかという織田軍団で随一というには役不足の感が否めません。およそ大局観というものがなく、故に秀吉に及ばないわけです。

猛将という割りには活きの良さも前田利家や羽柴秀吉に及ばないと感じるのは、その毒のないキャラクターの為でしょう。

柴田勝家は元々信長の弟信勝に仕え、家督争いで信長を亡き者としようと企てた挙句、戦に及んだ訳ですが、寡兵の信長に完膚なきまでに叩き潰され、以後信長に臣従します。

謀反を続けた信勝、謀反を起こした荒木村重、明智光秀。反抗的な行動をとって信長を激怒させた前田利家、羽柴秀吉。と違って柴田勝家は信長を恐れ忠犬の如く忠勤に励みます。故に信勝事件に勝家と同じく絡んだ林通勝の様に追放されることもなく重用され続けます。何となく泥臭い上に反骨精神に欠けるので今後人気は出るのかな・・・

見せ場といえば六角義賢に城を包囲されたとき、残った水を全て配下に振る舞い、背水の覚悟で水瓶を割り打って出て勝利を収めた「瓶割り柴田」の逸話ですかね。

柴田勝家が北ノ庄で検地や刀狩を秀吉よりも先駆けて行ったと言われたりしますが、これは一向一揆の盛んな土地柄の為、信長の命令を遂行したものらしく、同地を拝領する前後に信長の命令で一向門徒の根切りを実行してます。1575年8月には伊勢長島に劣らぬ殺戮ぶりで、僅か1週間で3万とも4万ともいわれる門徒を殺戮しました。これには信長もご満悦で「誠に気を散じ候」と記しました。

1576年の第3次石山決起と前後して再び越前門徒も蜂起しましたが、その有様が小丸山城跡から出土した瓦に記されてます。瓦には前田又左衛門尉に千人程が生捕りとなり磔にされたり焼き殺された旨、記されています。これについては大河「利家と松」の番組語のミニ解説での紹介されていた記憶があります。

越前拝領後、初の方面軍が設置され北陸方面の経略を担当します。1577年加賀に侵攻しますが、上杉謙信に手取川の戦いで大敗北を喫します。本能寺の変の後は秀吉と織田家の実権をめぐって争い、またも敗れて、妻の「お市の方」と共に自刃して果てます。

怖い上司に冷や汗垂らしながら「ハイッ!ハイッ!」と職務を必死にこなすサラリーマンの悲哀の様なものを柴田勝家に感じちゃうんですよネ・・・その分人は良いようで、「賤ヶ岳の戦い」において前田利家がさっさと退却したことを責めず逆に「後は秀吉を頼れ」と言った辺りに人の良さが出ていますが、生き馬の目を抜く戦国の世においては勝ち組にはなれませんでした。

そんな犬型人間の柴田勝家が、織田家の実権を争う政治劇を周囲も「止めときゃイーのに・・・でも先輩だしナァ〜、言えねぇヨ。」と思ったことでしょう。


権六(柴田勝家)が清州城の信行(織田信勝)を攻める場面。
史実とはかなり違いますが渡辺謙がやはり格好いい。


・織田四天王@滝川一益


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浅野長政の意外な終着点

2011/06/06 02:37
浅野長政・・・えっ?浅井長政の間違いじゃないかって?えぇ間違いではありませんヨ。確かに紛らわしいですが。

今回のテーマは何気によく名前の出てくる浅野長政です。

浅野長政の名前がよく出てくるのは大河ドラマにおいてです。秀吉の側近にして石田三成と同じ五奉行であり、しかも五奉行筆頭です。そんなポジションである為、大河ドラマによく出てくる訳です。そういう私もやたら出てくるなコノ人・・・と気になったのが興味を持ったきっかけだったりする訳ですが・・・

ただし、結構出ているのに殆どの人は記憶に残っていないでしょう。だって地味な上に所謂二列目の男ですから。後ろや横で「そやそや!」とか「かしこまりました!」くらいしか台詞もなかったよーな・・・

浅野長政は叔父である浅野長勝の養女(ねねの妹)と結婚し浅野家を継ぎました。嫁姉「ねね」が秀吉に嫁いだことから信長の命で秀吉に仕え、浅井長政攻めに参加しました。本当に紛らわしい・・・言ってる側から。

戦功での恩賞と事務方のそれを比べると明らかに事務方官僚であり、石田三成と被ります。まぁ、ですから同じ五奉行なんですけど。奉行職や兵站を担い、その手腕で五奉行筆頭となった訳ですが、石田三成とは反りが合わず対立し讒言により蟄居させられ、故に徳川家康方の東軍を支持しました。

同僚と反発し合った為に勝ち組に付く事が出来たワケです。嫁が秀吉の正室の姉妹であったことと併せて考えると運を持ってます、この男。信長-秀吉-家康と綺麗に勝ち馬に乗ってますから。しかも己の嗅覚ではなく成り行きで。

タイトルにありますこの浅野長政の終着点とは、長政本人のことではなく実は、その子孫のことを指してます。浅野長政は関が原の戦いの後、加増転封により紀伊37万石を得ます。これは嫡男幸長が継ぎます。そして幸長の次代に転封により広島浅野氏となります。

浅野長政は家督相続後、隠居料として紀伊とは別に常陸国真壁五万石を与えられました。この隠居料を三男長重が相続しました。

長重の子、即ち浅野長政の孫である長直のときに播磨国赤穂に転封となります。赤穂浅野氏です。ここまで来ればピンと来るでしょう。長政の孫である長直の孫が長矩です。

この長矩こそが浅野内匠頭なのでした。あの「殿中でござる」のタクミノカミです。いかに浅野長政がラッキーボーイでも遠い子孫まではその神通力も及びませんでした。が、しかし家老の大石内蔵助に主役の座を奪われるものの良くも悪くも目立つことが出来ました。めでたしめでたし・・・なワケないか。

でも浅野長政と浅野内匠頭の繫がりを知ったときは何やら感動めいたものを感じました。他にも似たケースが在りますが、それはまたの機会に・・・

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織田信長は唯一の天才

2011/06/04 20:30
日本の歴史には諸外国と比べても偉人、傑物は多いであろうと思われます・・多分ね。しかし、天才となると世界的に見てもそうはいないでしょう。天才を輩出していない国の方が多いのではないのでしょうか。天才とはそう安くはないのである。しかし、16世紀は天才の時代ともいわれ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの活躍した時代でもあります。

今回のテーマは日本が生んだ唯一の天才、織田信長です。信長も天才の時代たる16世紀の人物です。

えっ!日本に他にもいるヨ天才は!と思うかもしれません。しかし、その他の候補の多くは確かに偉大で、ずば抜けた能力の持ち主ではあるものの秀才、俊才という類であり、天才とは一線を画すものです。

「天才と○違いは紙一重」という言葉があります。これが端的に天才の何たるかを表しているのではないでしょうか。織田信長を天才足らしめているものは、その狂気でしょう。そう、他の偉人達には狂気が足りないのです。
言い換えると常軌を逸するとでもいえばいいのでしょうか・・・

梟雄松永久秀の項で、梟雄は既存の価値観を壊すと述べました。この点は天才織田信長と一致します。故に信長は戦国を代表する梟雄である斉藤道三、松永久秀と馬が合いました。そう、正統派ではなく邪道なのです。なので上杉謙信や武田信玄とは馬が合わないのでしょう。

では、梟雄道三・久秀と天才信長の違いは何でしょう?それは「個人で時代そのものを変える力」ではないかと私は思う訳なんですネ。梟雄も躊躇無く既存の価値観を壊すことをしますが、あくまで己が成り上がる為のもので、その影響力も目的もローカルなものです。信長のそれは自らが神になろうかという・・・これが狂気です。

同時代の欧州においてルネッサンスが起こってますが、それは神には天に帰って貰ってその代わりを人間が務める。故に一芸ではなく万能でなければなしませんでした。何せ神の代わりですから。東西を隔てて考え方に何か共通点があり興味深いです。但し信長は神にどいてもらう以前に全くその存在を信じていませんが・・・

しかし好き勝手やってるだけであったり恐怖だけでは人は付いて来ません。一大事業を成す天才には魅力も必要です。信長は若殿様の頃、乱れた格好をし身分の低い者とでも平気で肩を組んで歩き回りました。女装をして一晩中踊ったりもしました。この手の不良は得てして若者に絶大な支持を得ます。反面年寄衆には顔をしかめられます。

故に家督を継いだとき、信長に従ったのは悪仲間である親衛隊のみでした。主だった重臣達は信長と矛を交え完膚なきまでに叩きのめされた後、柴田勝家等が臣従していく訳です。身を以ってその力と魅力を味わわされ以後、犬のように仕えました。ですので嗅覚の鋭く、既成の価値観に捕われない梟雄の方が話が早いなというのがよく分かります。

その後、家臣たちは叡山焼き討ちや一向宗の根切り等の凶行を粛々と実行に移しています。信長による恐怖のみでは、人の上をいく神仏に唾吐く真似は出来ないでしょう。「恐怖」と「魅力の虜」という程よいブレンド(コーヒーではない)があって初めて遂行可能な凶行なのではないでしょうかネ・・・皆さんはどう思います?

これらの凶行は己が成り上がる為のものではなく、正に天に取って代わろうかという信長の精神性の顕われなのでしょう。松永久秀が大仏殿を焼いたのは、敵方が大仏殿に立て篭もった為、たまたまそこが戦場になったからであり、信長の叡山焼き討ちは叡山を焼くこと自体を目的としていました。

また若殿様時代のパンクな格好も若気の至りや周囲を油断させるためでもなく、己のセンスを躊躇無く表現出来る精神の持ち主であったということでしょう。大人になってからも南蛮帽にビロードマントという格好してましたから。ですので周囲の目を全く気にしていないということです。これが自身の神格化の根底にある重要な要素でもあり、織田軍団を飛躍的に強化させた軍装に繫がりました。そして西洋の巨大石造建築を見慣れている目の肥えた宣教師達をも驚嘆させた安土城へと帰結する訳です。

安土城は、その後の大天主とは一線を画すものでした。あの独特のフォルムといい信長のセンスを感じさせます。政治家がどうせいらぬ箱物を造るのならば、安土城を復元してちょーだい。さすれば世界的な観光名所になるかも・・・

天才のよく言われるもう一つの要素は、破滅であったり非業の死であったりする訳なんですが、時代の流れを生み出すまでは、天命というべきか、神懸かり的に絶体絶命な状況でも切り抜けます。その反面、流れを作り誰かが引き継げる段階に来ると、これまた天命かの様にあっけなく散ります。

この時代の日本は戦乱が百年も続いたこともあり、戦闘に関しては高みの極みに達していました。何せ四六時中戦いのことを考えている者同士の中で生き残ったのが戦国大名な訳です。またこの時代の日本人は海外からも傭兵として重宝されました。そんな歴戦の将兵を率いての織田信長の大陸進出を見てみたかった・・・というスケールの大きい「たら、れば」を考えさせてくれる織田信長は他の戦国大名とは明らかに一線を画す存在です。


幻の安土城と城下町-CGで再現- ため息が漏れますヨ・・・


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徳川四天王@井伊直政

2011/06/03 17:20
井伊直政は徳川四天王の中で唯一譜代の武将ではありません。しかし四天王の出世頭であります。この井伊直政、かなりの美少年だったそうな。そんなイメージなかったんですけどネ・・・

今回のテーマは、桜田門外の変で暗殺された大老井伊直弼のご先祖様、井伊直政です。

井伊直政の父は讒言により今川氏真に殺され、直政は徳川家康に見出されるまで、流浪の少年時代を送ります。こんな境遇の人、この時代結構います。本ブログで取上げた宇喜多直家も同じ境遇の持ち主です。

しかし、井伊家は北家藤原氏の庶流の名門で家格は松平家(後の徳川家)より上でした。下剋上の戦国乱世では、家格の意味がない良い事例です。

家康が取立てたのは、直政があまりの美少年であるため、小姓として寵愛する為だとする衆道説もあります。この名家出身の若輩者の美少年は武勇だけでなく知略、政治とオールマイティに活躍し、故に家康に重宝されます。この辺は堀秀政と似ています。天はニ物も三物も与えた訳です。チッ・・・あっ、いや失礼・・・

しかし、家来達は直政の下に就くことを大変嫌がったといいます。というのも直政は自分に厳しい厳格なる人物でした。故に出世出来た訳です。しかし周りにも厳しかったのでした。それも尋常じゃなく。今でもピリピリした空気の中で罵声が飛び交い、ヘマしたら即刻クビ!そんな職場で働くの嫌でしょう。直政は自らを、そして家臣をも酷使しまくったのでした。直政は怠惰なものは容赦なく斬り捨てたといいます。

武田氏滅亡後は、かつて「三方ヶ原の戦い」で家康本陣に突撃を繰り返し、その堯雄を家康にトラウマとして刻み込んだ山県昌景の「赤備えを」継承し井伊隊は以後、「赤備え」となります。

この良くも悪くもよく目立つ「赤備え」。当然井伊直政は卑怯未練な行動を許すはずもありません。故に井伊の「赤備え」は精強の名を轟かせるのでした。

そんな働き者の井伊直政も触れてはいけないものに触れてしまいました。「関が原の戦い」で敵中突破を図る島津義弘軍です。井伊直政は本多忠勝、松平忠吉と共に島津義弘に追撃を仕掛けます。すると島津必殺の※捨て奸が発動、直政と忠吉は重傷を負います。過去の戦歴で常に無傷であった本多忠勝ですら落馬をします。

※捨て奸(すてがまり)・・・島津家の戦法。退却時に大将を逃がす為、少数の足止め隊を編成し全滅するまで奮闘させる絶命前提の荒業。敵の追撃が鈍るまで繰り返し足止め隊を編成する。死兵と化しているので敵は概ね大損害を被る。「関が原の戦い」において島津義弘が敢行した「島津の引き口」が有名。

自分に厳しい井伊直政。関が原の戦い後も傷が癒えぬまま戦後処理に東奔西走し過労死してしまいます。享年42歳。働き盛り故の落とし穴でした・・・しかし頑張った甲斐があって、四天王の中で一番若輩でありながら江戸入り後に上野国箕輪12万石、関が原の戦い後に近江国佐和山18石と封禄トップに立ちました。

この井伊直政の精神は今も脈々とジャパニーズビジネスマンに受け継がれています。推奨しているのはもちろん会社経営者です(笑)


オリジナルストーリー 〜轄]戸物産・人事物語〜

(課長)あ〜君、来週から配置替えだからヨロシク!

(平)はい、どこに配属されるんですか?

(課長)よかったなぁ〜オマエ!今、出世頭の新進気鋭の井伊部長の部署だぞ。

(平)エッ・・・!?エーーーー!オーマイガーッ!

(課長)・・・(まぁ、あそこは異常な程解雇率高いもんなぁ〜)おいおい、そんなことでどーする。そこで頑張れば、君も出世間違いなしだぞ。何せあそこの制服真っ赤っ赤だからなぁ、井伊仕事・・いや良い仕事すれば目立つぞぉ〜♪

(平)目立つ分、余計に危険スよぉ〜!井伊部長超コエ〜しぃ(汗)・・オ〜マイガ〜ッ!!!!OH NO〜!

(課長)・・・終わったな・・・コイツ。

-Fin-


徳川葵三代「関が原の戦い」島津義弘 VS 井伊直政・本多忠勝・松平忠吉


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穴山梅雪と小沢一郎

2011/06/02 17:03
民主党もいよいよ空中分解しそうな様相を呈してきました。名門武田家の様に瓦解するのでしょうか?・・・あぁ、名門武田家と汚らわしい民主党とを比することは心がとても痛みますが・・・

今回のテーマは武田氏の御親類衆筆頭でありながら主君を裏切り、敵軍を先導した穴山梅雪です。なんと早くも二度目の登場は本ブログ初の快挙です・・・あぁ、本ブログの格式が・・・

と言ってるそばから不信任決議案提出の茶番があり驚いています。記事的にいぃ〜タイミングで。しかし造反議員2人って・・・加藤の乱の再現ですか。猫の次は何踊りでしょうや。

小早川秀秋の項で秀秋と菅直人を対比しましたが、今回のテーマは穴山梅雪と小沢一郎の対比です。

名門武田氏は武田信玄の時代に風林火山の旗印を掲げ、周辺諸国を席巻しましたが、信玄が側室への溺愛から無理な跡目相続をしたため、内部確執が抜き差しならぬところまで来ました。武田勝頼は優秀であると前記事で述べましたが、武威を示そうとも不協和音は鳴り止まず、名門武田が崩壊していくことも述べました。

穴山梅雪は織田、徳川との雌雄を決することになった「長篠の戦い」では、ろくに戦わず我先に戦場を離脱しました。高坂昌信はあまりのことに切腹をさせるように勝頼に迫った程です。が御親類衆筆頭の梅雪を切腹させることにより、内部分裂に拍車がかかることを危惧し処断出来ませんでした。

小沢も明らかなる違法献金や辺野古基地周辺の不動産購入とやりたい放題ですが、操り人形である小沢チルドレン共々離党を散ら付かせられると政府としても処断出来ずにいる様は正に獅子身中の蟲です。武田家は獅子ですが、民主党は自身が害虫ではありますが・・・

武功を挙げ、信玄の次代を担う活躍を見せた勝頼でさえ、なす術がなかった内部確執、経済的にも金山の廃鉱等による苦しい台所事情。加えて織田、徳川、北条からの外圧も増すばかり。

民主党の君主は勝頼の様な名将には程遠く、小早川秀秋の様な軽率な言動が目立つ菅直人であります。君主を初め党員もどこぞの○○人から献金を受け取っている奸物ぞろい。経済をみても不景気に震災が重なり苦しい限りです。そしてロシア、南北朝鮮、支那と外圧も増すばかり。

内憂外患ぶりの似ている末期状態の武田氏と民主党(本当に名門武田とは比べたくないんですヨ)。本格的な武田征伐が始まると御親類衆である穴山梅雪と木曾義昌が寝返る訳です。意見の対立、賦役増大による不満、斜陽の激しい主家への見限り・・・見事に小沢一郎と民主菅政権との関係に符号するではないですか。

民主党内での己のポジションに不満を持ち、影響力を行使して掻き回す。政治的ビジョンは何も無く、上手いのは金集めと票集めのみの売国奴。敵国に平気で自国を売るその感覚。沈み行く船から真っ先に逃げ出すドブネズミの如きその言動。処世術と云われればそれまでですが、嫌悪感を感じずにはいられません。岩手県民は支持してるのでしょうかネ?

ただし、武田家は戦国時代に名を馳せ実戦経験も豊富であります。本物の殺し合いの厳しさを知っています。その点は菅政権や小沢と決定的に違うということは云うまでもありません。

実は今回、穴山梅雪、木曾義昌、小山田信茂の誰と比するが凄く迷いました。ですが、寝返る前から散々意見対立してきた経緯と命令無視の長篠の戦いでの所業を考えると梅雪かな・・・と結論付けました。

しかし小沢の結末はこの三人の誰かと被ることになるのでしょうか?興味深く見守りたいと思います。

・穴山梅雪・・・本能寺の変の折、財宝を沢山抱えて逃げてるところを土民の落ち武者狩りに襲われ惨殺される。

・木曾義昌・・・信長により加増を受けるものの、秀吉時代に不信を買い転封。息子の代に改易される。

・小山田信茂・・・織田信忠に不忠を責められ、嫡男共々処刑される。

所詮悪党の最期は決まってる・・・はず?果たして小沢一郎が迎える結末は如何なるものか?

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悲運の名将 武田勝頼

2011/06/01 19:26
長宗我部元親は大友宗麟と同じく晩年がよろしくないので、私の中で評価が低い。と述べました。で、云わずと知れた戦国最強の呼び声高い武田信玄。彼の晩年は、元親、宗麟の様におかしくはならなかったものの、どうにも下手を打った感が拭えません。故に信玄の評価も低いです。

今回のテーマは何かと父信玄と比較され凡庸に思われがちな武田勝頼です。

武田勝頼は信玄と違い思慮の足りない猪武者のように昔は描かれることが多かったのは、信玄が築いた国を「長篠の戦い」での敗北が元で滅亡させた張本人の様に扱われた為でしょう。しかし、甲陽軍艦には「常に短気なることなく、喧狂におわしまさず、いかにも静かで奥深く見え奉る」と記されていて実像は違うようです。

そんな武田勝頼は出生の時点から凶兆の影を背負っています。それは信玄が謀殺した諏訪頼重の娘との間に設けた子が四郎勝頼であり、諏訪氏は※建御名方命の末裔と称して甲斐の人々は「頼重の復讐を成す呪いの子」として不吉がった経緯があるからです。

確かに呪われていると思える位、急転直下に滅び行く名門武田氏ですが、当の本人武田勝頼は懸命に領国運営に励みました。

信玄には嫡子義信がいたので、勝頼は諏訪氏を継ぐ予定でした。しかし信玄は美人で若い諏訪の御料人にハマり、その諏訪姫が早世すると、その子勝頼を溺愛しちゃう訳です。となると義信を廃嫡し2年間幽閉させた後に自刃させます。信玄ともあろうものが女色に溺れ判断を誤った訳です。無理な家督相続をしたおかげで家臣団に亀裂軋轢が生じるのは当然の帰結でした。

政治的理由から勝頼は当主ではなく信勝(勝頼の嫡子)が当主となりました。勝頼は信勝が元服するまでの陣代という扱いです。偉大なる先代、諏訪から来た陣代、お家騒動による軋轢。これでは思うようにことが運ぶ訳がありません。

勝頼が相続したのは当主の座ではなく、信玄が残した負の遺産だった訳です。あぁ可哀想。こんなツケを次代に残す信玄の評価が低い所以です。

家臣団から軽んじられる武田勝頼は己が武威を示し、家臣団をまとめ上げることを決意します。悲壮な覚悟を持って信玄公ですら攻略出来なかった遠江の徳川方の高天神城の攻略に乗り出します。同城は戦略上重要な要衝である反面、難攻不落の堅城である為、信玄でも攻略叶いませんでした。しかし勝頼は見事攻略して見せます。

その後は織田領である美濃に進軍し明智城や砦を多数落とします。あまりの電撃的な進軍に神速で有名な信長の後詰めが間に合わない程でした。これには織田信長徳川家康も戦慄を覚えました。勝頼の武名は周囲に鳴り響きます。北条氏は「性格は剛直、明快、単純であって、合戦に全ての命運を懸けるところは、亡き信玄以上の逸材であり、戦上手。」と勝頼を評しています。

あの信長でさえ上杉謙信宛に「勝頼は天晴れなる大将」と評しています。そう、当時武田勝頼は隠れなき名将だったのです。信玄が頼った金山も枯渇し、勝頼は信長の経済力に着目し、信玄時代に開いてしまった織田家との経済格差を埋めるべく信長式経営を取り入れようとした節もあります。ただし、その試みよりも早く滅亡してしまいますが・・・さぞ無念だったことでしょう。

しかし、そんな外部の高評価や勝頼の努力も空しく、武田家中は武田勝頼を依然として諏訪勝頼として扱い、親族衆の反発は収まらず、故に勝頼は更なる武威を示す必要性を感じます。そして運命の「長篠の戦い」へと歴史の歯車に誘われるのでした。やはり呪いなのでしょうか・・・信玄が諏訪の姫に魅入られた時点で武田氏の命運が尽きていたということでしょうか。

長篠の戦いの後、勝頼は懸命に外交政策に奔走しますが織田、徳川、北条の大軍が雪崩れ込んで来ると、戦闘らしい戦闘も殆ど無いまま蒸発するように武田勢は消滅します。裏切りと逃亡が続出したためです。信玄の甥にして娘婿である親族衆筆頭の穴山梅雪までもが早々と寝返りました。

勝頼受け入れを申出た小山田信茂の元へ向かった勝頼でしたが、その小山田信茂までも寝返り、進退窮まった武田勝頼は天目山にて夫人、嫡男と共に自刃して果てます。名門甲斐武田氏の最期でした。

この結末は勝頼の力量、能力がもたらした結果ではなく、信玄にあると私は思ってます。勝頼だけでなく、信玄と供に勇名を馳せた名将達も長篠の戦いで命を散らしたことの遠因もまた同じです。

武田信玄の最期は豊臣秀吉とダブるんですよネ。側室溺愛による無理な世継ぎ。そして一枚岩でない家臣団。息子の行く先に一抹の不安を抱えながら黄泉の国に旅立つ辺りが何ともそっくりです。

偉大な実績や確かな実力。それらがあっても女色に溺れ判断を誤ることの結果の恐ろしさ・・・綺麗な薔薇には棘が有る。分かっちゃあいるが、歴史にその名を残す数多の偉人達でもその罠に嵌りました。

皆さんの周りでも溺愛や不倫で人生変わっちゃった人、沢山いるでしょう?気を付けましょうネ・・・

アレ?なんか信玄の話になっっちゃた様な気が・・・やはり父親は偉大です。

※建御名方命(タケミナカタノミコト)・・・「古事記」に出てくる出雲の国の大国主(オオクニノヌシ)という神の子であり大和朝廷との戦いに敗れ諏訪大社に鎮まったとされる。

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穴山梅雪とハリウッド映画

2011/05/31 17:29
穴山梅雪とハリウッド映画?何のこっちゃと思うことでしょう。それは後述するとして、私は穴山梅雪こそ戦国一の奸臣だと思うんですよネ・・・本当にとんでもないヤッちゃ。

今回のテーマは名門武田氏を破滅へと追いやった奸臣穴山梅雪(信君)です。

穴山梅雪は戦国大名の代表格武田信玄の甥にして娘婿、御親類衆の筆頭と云われた武将です。信玄存命中は内政に励んでいましたが、前記事の堀秀政と違い、己が分をわきまえず、故に身の丈に合わない権力欲に憑り着かれちゃったのでしょう。

日本スポーツ界の協会って、その競技のOBが運営していますが、相撲協会を筆頭に異常な権力欲と私腹を肥やすことに邁進してる姿がよく見受けられます(五輪前なんて特に分かり易い)。穴山梅雪もそんな嫌なオヤジだったのでしょう。ボロカスに言ってますネ(苦笑)

そんな梅雪に武田勝頼も信玄を支えて来た名将達も歯軋りする思いだったろうことは想像に難くありません。何せ織田信長の築いた超大国と隣接し、信玄亡き後は勝頼を中心に一致団結して難しい領国運営と的確な戦略を練ることが迫られてるという大事なときに、一々口を挟み掻き回して来るのですからたまりません。あぁ・・・

ただ、長宗我部元親の記事でも述べたように信玄が無理な家督相続をしたため滅亡するのは歴史の必然と述べました。故に仕方がないと云えばそれまでですが・・・

さて、ハリウッド映画ですがアメリカ人は単細胞なのか勧善懲悪モノが多く、パニック映画や特撮生物映画等では必ずといって良い程、主役達に迷惑を掛け、権力欲や物欲の激しい小悪党が、最期は主人公の制止を振り切った挙句、断末魔を挙げながら死んでゆく・・・・こんなパターンを繰り返し何度も見たことはないでしょうか?

そう、正しく穴山梅雪とモロに被るのです。「長篠の戦い」では勝頼と意見対立した挙句に戦場を勝手に離脱し、結果武田勢は大敗を喫しただけでなく、信玄と供に勇名を馳せた名将達をも失います。

挙句の果てにはこの男、徳川方に寝返り織田、徳川の大軍を侵攻させる呼び水となります。すると本当にあっけなく名門武田は滅びてしまいます。正に奸臣中の奸臣です。

さぁ、ここでハリウッド映画です。小悪党の最期は断末魔をあげながらの憤死でしたネ。そう小悪党たる穴山梅雪の最期もそれに相応しいステージが用意されているのでした。

本能寺の変の折、徳川家康に同行して堺見物をしていた奸臣穴山梅雪。家康が着のみ着のまま伊賀越えして本国に帰るのをよそに、この梅雪は強欲で財宝が惜しかったらしく、それを沢山抱え家康方に盗られちゃ嫌だと別行動するんですネ。とても戦国武将とは思えません。この小物ぶり、ハリウッド映画の小悪党に本当に被ります。でもこの人はフィクションではありません(笑)

で、こんな混乱時に金銀財宝を抱えたおじさんが地理の分からない山道歩いてたらどうなります?・・・そうです、オヤジ狩りに逢うんですネ。この時代はもっと恐ろしい落ち武者狩りというヤツですけど。卑しい土民どもに惨殺されるとき小悪党があげた断末魔はいか様なものだったのか・・・

・穴山梅雪と小沢一郎


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隠れた名将A堀秀政

2011/05/30 18:26
堀秀政・・・誰それ?とか言う人結構いるのでは?隠れた名将@里見義堯の記事も人気低そうだけど、そもそも当ブログ自体が世に隠れたものだから関係ないか(笑)

とはいえ、かなりの美少年だったと伝わる堀秀政。今後ブレークの可能性大・・・なはず?今回のテーマは美少年だからではなく、能力が高い故に隠れ名将に取り上げることにした堀秀政です。

この堀秀政、美少年というだけあって、あの織田信長の小姓をしておりました。信長の小姓と言えば皆さん森蘭丸を思い浮かべるでしょう。・・・がしかし蘭丸以前に信長の寵愛を一身に受けていたのがこの堀秀政です。よく女性に関して美人薄命と言いますが、秀政も蘭丸も若くして亡くなりましたが、美に関しては男女平等ということですかね・・・

しかし、この時代の美少年はチャラ男ではありません。武士道教育を受けて武芸百般にも秀出ていないといけませんから。とくに信長の勘気に触れようものなら、「クビ」です「クビ」!もちろん今の「クビ」とは意味が違います。リアルな意味でクビが飛ぶ・・・正に仕事も命懸けです。

実力主義の信長の下で秀政は勘気を被ることなく小姓、奉行職を卒なくこなします。優秀な秘書・事務方といったところですかネ。合戦の現場でも伝令役を得意とし、信長を頂点とするトップダウン構造の織田軍団の円滑な行動力を助けました。実に使い勝手がよかったことでしょう。こういう地味なポジションが一番重要かつ難しいものだったりするんですよ、ホント。決してパシリではありません。

ここまで掘秀政を事務方のように記しましたが、実はかなりの戦上手で、武将としても一流なのです。そう、なんでもこなせるオールマイティさから、「名人久太郎」と呼ばれました。

この秀政、蘭丸と違い本能寺の変では豊臣秀吉に同行して毛利攻めに参加してました。そう、運まであります。薄命ですがね。信長の評価が高い堀秀政、当然秀吉も重宝します。織田家中の権力闘争には秀吉に与し、いづれの合戦にも参戦し軍功を挙げています。

その後、織田家の勢力を引き継いだ秀吉と徳川家康との唯一の直接対決「小牧長久手の戦い」で秀吉は惨敗しますが、堀秀政隊は徳川方を撃退してみせ「名人久太郎」の看板に偽りがないことを示しました。

ですので、家康の堀秀政への評価も高く、奥州平定後の押さえは「堀秀政か蒲生氏郷か」と秀吉、家康両人に言わしめました。

しかし、この秀政は卒なく職務をこなし戦上手であるものの、妙な野心を持たず、それでいて不器用に実直な尽くし方をするでもなく、本当にバランスが取れてます。己というものをわきまえてる感じが好きで、学生時代から妙に惹かれました。伊達政宗とは反対のタイプの偉人もいるんですね。

美男子で何でも器用にこなせても自惚れない。自分に厳しいんでしょう。故に人望まであります。今現在サラリーマンが見習うべきは堀秀政なんじゃないかと思うんですよネ。決して織田信長や毛利元就なんかに憧れて目指してしまわないように注意しましょう(笑)

しかし、将来を嘱望された堀秀政、北条小田原攻めの陣中で病により陣没します。享年38。早過ぎる死でした。秀吉は小田原落城後には関八州を堀秀政に任せようと思ってたのに・・・と残念がります。

戦国ビッグ3といわれる信長、秀吉、家康の全てに認められていた隠れなき名将堀秀政。復権の時は近い?

・隠れた名将@里見義堯
・隠れた名将B蜂須賀正勝
・隠れた名将C長野業正


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独眼竜伊達政宗

2011/05/30 01:25
老若男女を問わず絶大なる人気を誇る伊達政宗。言わずと知れた独眼竜、奥州の覇者である。人気先行型とは違い、確かな実力を備えた権謀術数を張り巡らせた名将である。

今回のテーマは「独眼竜」こと伊達政宗です。

伊達政宗が一躍脚光を浴びるきっかけとなったのが、大河ドラマの「独眼竜政宗」でした。若かりし頃の渡辺謙演じる伊達政宗は凛々しく格好良かった〜!ジェームス三木の脚本もよく出来ており、故に大河歴代視聴率No1の記録は未だ塗り替えられぬ不滅の金字塔と化してます。

伊達政宗は厳しい戦国乱世のなか若干18歳で家督を継ぎ、奥州を斬り従えていき24歳にして早くも絶頂期を迎えます。これだけ見ると順風満帆に見えますが、家督相続前から苦難と危機の連続でした。

只でさえ厳しい戦国乱世のなか、度重なる危機を若干20歳前後で乗り切ってみせた政宗。即ち伊達政宗は10代にして血で血を洗う戦国の掟を悟った一人前の戦国武将であったということです。畠山義継に父輝宗を拉致された折、父もろとも義継を射殺するか、泣く泣く敵方の城に逃がしてしまうかの決断に迫られ、射殺する断を下したのが若干19歳のときであったというのがその証でしょう。

戦いぶりも苛烈を極め周辺諸国を震え上がらせます。しかし出る杭は打たれるの理のとおり危機的状況に見舞われます。「人取橋の戦い」がその最たるものでしょう。

人取橋の戦いは「鬼佐竹」こと佐竹義重を中心に蘆名、畠山、岩城、石川、白河の連合軍三万を相手に籠城せず八千の兵を率いて死闘を繰り広げます。多勢に無勢で押し込まれるものの総崩れとはならず持ちこたえます。翌日佐竹氏の領国を関東勢が覗う動きを見せたため、連合軍は退却します。政宗の策略だとも言われています。

蘆名氏を「惣無事令」を無視して滅ぼしたことを豊臣秀吉に問責され危機に陥ったときも、用意周到に秀吉侍臣に誼を通じ、とりなしを計りつつ、秀吉の性分も調べた上で巧みに切り抜けるあたりの権謀術数は流石です。

しかし奥州を席巻した独眼竜の野望は消えるはずもなく幾度となく不穏な動きをみせるのでした。そこが魅力なんでしょうね。従順な犬型人間よりもね。

豊臣から徳川の世になっても独眼竜伊達政宗の野望は潰えることなく虎視眈々ともちろん狙ってます。それが露見しても改易や大幅な減封を喰らわない辺りはホントに政宗の政宗たる所以でしょう。野心もなくタンカを切った挙句に臣従し、大幅な減封と転封を喰らった直江兼続とはスケールの大きさが一周りもニ周りも違います。

明治政府が近代化の為に留学生を奥州でなく欧州に送り込んだとき、自分達が初めて欧州を訪れた日本人だと思っていた留学生が信じられないものを目にするのです。それは伊達政宗が遣わした遣欧使節の記録です。スペイン国王と組んでの討幕を模索していたのでした。なんという発想でしょうか・・・

これを伝え聞いた明治天皇が伊達政宗こそ文武両道の武将であると賛辞を贈り、戊辰戦争で反逆者の烙印を押されていた奥州の人々は気持ち的に救われたと述べているのをNHKで見ました(受け売りかよ)。

世界を見据える視点を持っていたとは流石織田信長に憧れていただけのことはあります。400年前にこの視点にたてる偉人がいた我が国日本。あぁ、そんな政治家が今の日本に欲しい〜。

というわけで、独眼竜伊達政宗には本ブログに今後何回もご登場願いましょう。


名作「独眼竜政宗」父伊達輝宗との死別


名作「独眼竜政宗」人取橋の戦い!鬼庭左月斎の最期


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歴女に人気の武将B長宗我部元親

2011/05/29 10:34
石田三成直江兼続に続く歴女に人気の武将第3弾は長宗我部元親です。ただし人気シリーズと銘打っときながら、私の中で評価が低い三名を取上げてます。歴女に怒られそー(汗)

今回のテーマは「土佐の出来人」こと四国の覇者長宗我部元親です。

歴女人気にあやかってか、最近「オキザリスの旗」という漫画の主人公にもなっている長宗我部元親・・・がしかしです、何故私の中で低評価なのか?それは大友宗麟と同じで晩年が良くありません。元親は四国、宗麟は九州を制覇する一歩手前までいきながら、その後急速に衰退していくこの二人、なんか似てます。晩年に辛さに耐えかねて現実逃避するところまでソックリです。

そんな暗い影を暗示してか「鳥なき島の蝙蝠」と織田信長が長宗我部元親を評しています。何とも強烈です。蝙蝠の野望・・・それは四国統一です。この蝙蝠の血統は興味深いです。それは秦の始皇帝の末裔である渡来人秦氏です。

秦氏はその後長宗我部を名乗り一時没落しますが、元親の父国親の代に再興し、仇敵本山氏との戦い半ばで国親は急逝します。国親の嫡男元親の初陣は22歳と遅いですが自ら槍を執る活躍で「姫若子」転じて「土佐の出来人」となる訳です。

勢いかって調略をも駆使して四国に勢力を拡げていったは良いが、四国統一という野望を捨てきれないが為に危機を呼び込みます。信長の四国征伐は本能寺の変による信長の横死で免れたものの、秀吉にも譲歩せずに結局大軍に三方面から攻め込まれます。

元親は乾坤一擲の策を練り、挟撃に掛けますが宇喜多隊の軍監黒田官兵衛が地形を見た刹那、長宗我部方の狙いを看破しました。やはり黒田官兵衛恐るべし・・・そして元親は降伏を決断するのでした。結果、土佐一国のみ安堵されました。

ここからは呪われたかの様に長宗我部氏の斜陽が顕著になります。秀吉の命での九州征伐において軍監仙石久秀の判断ミスで嫡男の信親が討ち死にするという悲劇に見舞われます。

ここから元親がおかしくなります。落胆ぶりがあまりにも酷く心の穴を埋めるべく四男盛親を溺愛いや盲愛してゆき、こうなると奸臣久武親直の讒言にも乗ってしまう訳です。

反対する忠臣を粛清し、二男親和は自刃、三男親忠は幽閉。血をみてまで愛息盛親を執念で跡取りとしました。あぁ、何という豹変ぶりでしょう・・・この後の盛親も長宗我部の主力を成した一両具足も悲劇的最期を迎えることを知る由もないまま元親は亡くなります。

信長に蝙蝠と評された長宗我部元親・・・豊臣秀吉と徳川家康の直接対決となった小牧・長久手の戦いで蝙蝠らしくどっち付かずの態度をとり、家康に不信感を与えてまでも蝙蝠の野望である四国統一に魅入られ邁進した時点で滅亡が確定していたのかも知れません。

武田信玄も流血を厭わない形で勝頼を跡取りにしてしまい、滅亡の憂き目にあってるので、これは歴史の必然なのでしょう。皆さんも相続には気を付けてネ・・・

・歴女に人気の武将@石田三成
・歴女に人気の武将A直江兼続


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